長崎県労連事務局長の鳥巣です。
今、ウクライナでは、ロシアによる軍事侵攻が始まって以降、様々な困難な事態が現地に起こっています。一日も早く、平和が戻ってほしいと祈るばかりです。
しかし、一方で思うことがあります。
戦闘による街の破壊、国境を越えて逃げまどう人々、たくさんの死体、爆発で腕をもぎ取られた人、略奪、性的暴行、嘘の情報、プロパガンダ、軍による自国民への裏切り…
とても悲惨な出来事の数々ですが、語弊を承知で言えば、私は「既視感」を感じています。
いまウクライナで起きていることは、約80年前に日本やアジアで起きたことの繰り返しだ、ということを言いたいのです。
度重なる空襲や原爆で、日本各地の都市は焦土と化しました。満州や朝鮮半島からの引揚げの苦難は、様々の記録があります。長崎原爆の死体の写真は、小学校3年の時に教室に置かれていた戦災記録の本にたくさん載っていました。爆発の衝撃で片腕をもぎ取られたすずさんの物語はNetflixで観ることができます。軍による略奪や性的暴行の話も様々記録が残っています。「大本営発表」という言葉は、転じて「政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報」(コトバンク)という意味になってしまいました。そして、軍は必ずしも国民を守るとは限らず、例えば沖縄の集団自決については、当時の日本軍が「軍官民共生共死の一体化」の方針をとり、軍による集団自決の命令・強制・誘導があったことが指摘されています。
今日は憲法記念日、現憲法施行から75年。
「憲法9条あっても戦争は防げない」とは最近ネットでよく見かけることばですが、この75年間(大日本帝国憲法のときよりも長い期間)どの国からも攻め込まれず、また他国に攻め込む事なく来れたのは、この憲法あってのことだと私は思います。
今日改めて、亡くなったマイケル・シーゲル神父(カトリック神言修道会、南山大学)の『憲法九条に関する一考察』を読み返しました。( https://rci.nanzan-u.ac.jp/.../publication/list/002035.html )
この中に「安全保障のディレンマ」(国の安全保障のために採った軍備、同盟等の対策が他の国から脅威とみなされ、それらの国も軍備増強で応えることで、軍拡競争が引き起こされ、国の安全保障が逆に危うくなること)の話が出てくるのですが、日本の場合は、9条があるがために他国への軍事行動の実行が抑制されているため、隣国から重大な脅威と捉えられることなく「強力な軍隊」を作り上げることができた、なので、いま憲法改正を行うことは「一夜にして膨大な規模の軍備増強が行なわれたのと同等の意味を持つ」ことになると指摘していて、改憲が実は防衛上重大な危険性をはらんでいるという事が明らかにされていていました。
私含め、一人一人ができることは微力です。しかし、みんなの「微力」は、集まれば大きな力となります。
核兵器禁止条約ができたのも、被爆者の願いと、被爆者に連帯した世界中の市民の「微力」の結集の成果だと思うのです。
「微力だけど無力じゃない」と信じて、これからもできることをやっていきたい。